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石塚ファミリークリニック
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西宮市の内科|石塚ファミリークリニック-石塚 俊二理事長

これまでの歩み
石塚ファミリークリニックHOMEこれまでの歩み
スポーツに明け暮れていた
小中学生時代

本籍は京都市で、5つ上に姉、3つ上に兄がいます。

父が尼崎市で建築、鉄鋼業を自営していたために生まれてすぐに尼崎市塚口で過ごしました。

自宅が父の会社の隣にあり、母親も会社の寮の手伝いをして両親が多忙であったこともあり、自宅に来られていたお手伝いさんが、食事、洗濯などを始めとして生活のお世話していただき、祖母のような存在で大変お世話になりました。

 

小学校の頃は、父が登山やスキーが趣味であった影響でよく連れて行ってもらいました。

夏は登山冬、春はスキーとういのがルーチンでした。夏は、本当は海水浴に行きたかったのですが、いつも登山旅行となり、兄と「また山登りか」と文句を言いながらも2000m級の鳥海山や三国連峰などに行ったことを覚えています。

冬は、終業式の翌日から始業式の前日までスキー場で過ごすようにしていました。

ホームグランドは、信州の八方尾根スキー場志賀高原の熊の湯スキー場でした。

八方尾根スキー場は、父の所属の山岳協会の地元の知人が民宿を営んでおり、また、志賀高原スキー場は、当時あった藤島スキースクールで毎日レッスンを受けていたことあり、毎年来るのでスクールの校長先生やコーチの方々と親交が深くなっていきました。

このため、両親が仕事で忙しい時は、行く先の旅館やスクールの先生に連絡し、小学生でありながらも、どちらのスキー場も兄弟だけで、大阪、名古屋、信州と電車を乗り継いで、最後に駅まで迎えに来てもらうようになって行くほど、どちらも定宿となっていました。

この頃、将来はスキーでオリンピックに出場し、生計を立てようと本気で思っていました。5歳からスキーを始め、小学校低学年ではかなりの腕前と自負していたこともあり、他流試合のつもりで、小学校3年の時に志賀高原横手山大回転スキー大会に出場しました。

結果は、転倒し散々であり、地元の小学生のレベルに圧倒され打ちのめされ、あっけなくその後は趣味としました。

 

中学では、スポーツでも兄弟喧嘩でも食事のスピードでもいつも兄に負かされていたこともあり、兄がテニス部であり、兄とは違うスポーツを始めたい理由もありサッカー部に所属しました。非常に厳しいクラブで、練習中は水分摂取を一切禁止されるような昔ながらのクラブでした。

当時は、今と違って野球に圧倒的な人気がありましたが、サッカーの魅力にとり付かれ、夏休みも正月も元旦からボールを蹴る毎日で充実していました。

2年生からはキャプテンを任命され、これまたサッカーが生業になるのではと思うほど、ますますサッカーに没頭するようになりました。

何事ものめり込む性格は今も変わっていないと思います。

この頃、ヨーロッパのサッカーの試合はほとんど放映されなかったのですが、いつも厳しい顧問の先生が、土曜日の練習後だけは、校長室にあるテレビで、唯一放映されていたダイアモンドサッカーという番組のヨーロッパのサッカーの試合を見る手配をしてくれることがとても嬉しかったです。ワクワクしながら部員全員でテレビにかじりつきで、その後、その好きなサッカー選手をイメージに持ち練習試合を楽しくしていたことを思い出します。

また、サッカーの神様であるペレの引退試合の一つとして「サッカーフェスティバルさよならペレ」が昔の大阪球場で開催され、クラブ員で見に行ったことも懐かしく思い出します。

石塚理事長 幼少期、小学生、中学生当時の写真
下矢印

医師になる決意をした
高校時代

石塚院長学生時代の写真

大学イメージイラスト

高校では、中学でのクラブが厳しすぎた経験もあり男子校でクラブも所属せず友達と毎日ブラブラしていました。将来もゆくゆくは、兄と一緒に父の建築業を手伝うのだろうと漠然に思って大学も建築学科を第一志望としていました。しかし、高校2年の春に自分の運命を変える出来事が起こりました。

その春休みに交通事故に会い、入院を余儀なくされました。九死に一生を得るような状態でベッド上の安静が続きました。

両親、親戚、友達や家庭教師の先生までが駆けつけてくれ、母親は私を見て毎日泣いておりました。 初めて、自分がどれだけ多くの人に迷惑をかけ、また支えられているかを実感し、また、このとき程、自分が生かされていると思ったことはありませんでした。

さらに、その時の主治医の先生が本当に懸命に治療してくださり、毎日、朝、夕2回診察に来てくれて精神的にも支えられ、無事、後遺症もなく元気になりました。主治医の先生とは今も交流があります。

この経験から、僕自身も医師になってからも入院患者さんは、2回診察を行うようにしました。このことから、人にとって最も大切な生命に携わり、多くの人から感謝される職業が医師なんだと実感し、今度は自分が医師になって、本当に病気で苦しんでいる人に希望を与えたいと思いが強く、医師になる気持ちを固めました。

その後、一浪してしまいましたが、大阪医科大学に入学しました。

父は、本当は兄と家業を継いでもらいたい気持ちが強く、頑固に医学部には反対でしたので建築学科と医学部を受け、賛成派の母親に仲介をお願いし、何とか医学部に入ることができました。

医師になり研修を終え
東京での武者修行

卒業後は、内科に所属し大学で2年間の研修を終え、3年目には阪神間の派遣病院に就職することになっておりました。しかし、当時、大学病院が、腎臓病、膠原病の部門がなく、上司の教授が東大出身であったこともあり、ある時、教授の同級生の東京の杏林大学の腎、膠原病の教授を講演に迎えました。この講演後、腎、リウマチ・膠原病という難病の治療に興味をもち、所属の教授にお願いし、3年目より杏林大学に国内留学することになりました。杏林大学は、東京都三鷹市に在り、東京駅から中央線で約40分のところで、閑静でのんびりした街並みです。

杏林大学の腎、リウマチ・膠原病内科は、全国でも数少ない腎、リウマチ・膠原病さらに透析治療を総合的に診られる内科であることも大きな魅力です。想像していたように腎臓病、膠原病は難病が多く、専門的な知識が必要で初めの頃は苦労というより無我夢中でした。忙しくて病院に泊まり込むことも多かったですが、仕事そのものは充実していました。

腎臓病は、主に腎生検という検査によって患者さんから腎臓の組織をいただき、顕微鏡で診断し、治療を確定しその効果を確かめていくものでした。

膠原病は、腎生検に加え、その症状も皮膚から臓器に至るまで全身の状態をしっかり聞き、詳細に観察しないと診断が見えてこない場合が多く、治療も症状に呼応してデリケートで奥深く、また、発症年齢も20~30代と比較的若く精神的なケアもより必要とします。

当初、初めての一人暮らしと関西弁でなんとか生活しながら、1年ぐらいで帰るつもりでしたが、性格上、どんどん腎、リウマチ膠原病にのめり込み、杏林大学の先生方に助けられながら、この分野で基礎研究も始めるようになり、4年後に学位取得させてもらうことができました。

この間には、バイト先の病院として静岡や埼玉にある病院にも勤務しすっかり関東の生活が肌に合ってきました。埼玉では、重度心身障害者施設にも勤務し、重症の小児疾患にも携わることができました。

米国留学で得たこと

その後は、基礎研究をしばらく続けるために、3年間カリフォルニア州のサンディエゴにあるスクリプス研究所カルフォルニア大学サンディエゴの研究所に留学していました。

留学中は医学の勉強が第一の目的ですが、違う国の人と接していろいろな考えを学びました。

最初、ボスには「君の研究は、君が一番よくわっているのだから、私にしっかりと教えてほしい」と言われました

ボスからこのような言葉を言われたのはびっくりしました。

アメリカではいろいろな人種の人がいて、さまざまな意見を出し合い物事を決定していきます。日本のように以心伝心はなく、まずは、話すことが第一で、会話なしでは何も決まりません。そこで、良い意見は、上司や部下など関係なく取り入られます。

日本の良いとこももちろんありますが、変化が早い世の中では臨機応変にベストの方法を決めることが大事であり、その点では彼らにはとてもかなわないと思いました。

サンディエゴの町もとても美しく、留学中は家族との時間も研究の支えとなりました。その後、杏林大学に戻り再び病院勤務になりましたが、ここで再び人生の岐路に立たされました。

石塚理事長米国留学時代の写真
石塚理事長米国留学時代の写真
石塚理事長米国留学時代の写真

開業への決意

日本に戻り、しばらくすると手、足にしびれが認め、頸椎に病変があることがわかりました。

大学病院での診療と研究でのハードな勤務を長年続けていたこともあり、体が悲鳴を上げていたのでしょう。

症状が進行したためにしばらく大学病院を離れ休養していました。実際、東京に自宅も構え、そのまま病院勤務を続けようと考えていたので、その時は本当に堪えました。初めて、今後の医師人生を考え抜きました

その結果、このような身体でも長く勤務できる開業を決意し関西に戻ることにしました。

医師になって以来、ずっと大学病院で先進医療を学んでいましたが、患者さんと向き合い、病気を診ることに診療場所は関係なく、大学の専門分野では診ることができなかった、どんな病気にでも対応できるような総合医療を実践すれば、大学病院にも負けないぐらいの治療で、患者さんに喜びや希望をもってもらえる医療ができるのではないかと考え、その思いを自身のクリニックで実践しようと決意しました。その第一歩として、開業前に地域医療を学ぶ目的で、長く関西を離れていたので、笹生病院で救急医療の習得のために勤務し、その後、開院しました。

開院時よりの目標

まずは、子供からお年寄りまで、一人のさまざまな症状から病気を広く診る総合診療医を目指すことでした。

卒業後、そのほとんどを大学病院で勤務し、腎臓、リウマチ膠原病という専門性だけを貫いていると、患者さんが本当に訴えたいことや診てほしいことは、この専門分野だけの診察なのかという疑問が常にありました。

実際、大病院では「知りたいことや聞きたいことが言えずに帰ってきた」「リウマチも診てもらいたいけど、他の部位も気になる」「家族が手術するけど病院の選び方は」など医療に関して知りたいことはたくさんあると思います。

専門的な治療以外で、これらに声に耳を傾けることだけでも、患者さんを支える治療になるのではないかと考えていました。

このための窓口として、総合診療を実践し、子供からお年寄りまでを患者さんや家族の健康をよく知り、頼りになる相談相手としての家庭医を目指しております。

次に、その総合診療の延長として、通院ができない患者さんや、通院していたが徐々に困難となった患者さんを診る在宅医療を開始しました。

実際、当院は在宅療養支援所を設置し、認知症、癌末期、脳梗塞後遺症、心疾患、在宅酸素治療、肢体障害など体が不自由な方や栄養状態が悪い方など、通院が困難な患者さんを対象に訪問診療を行っております。

さらに、長年、専門としていたリウマチ・膠原病、腎臓病については、ステロイドや免疫抑制剤などなど、この病気の状態はもちろん、患者さんの年齢、お気持ちなどよりきめ細やかに、薬剤の副作用も考慮し選択する必要があるために、その作用を十分に考慮し、より専門性を生かした治療を行います。

これらの3つの治療を主軸として、診療体制は次の特色をもっています。

 

1.患者さんが気軽に相談できる総合診療の実践:初期治療(プライマリーケア)

2.終末期や重症で来院できない患者さんは在宅、往診診療を行う

3.リウマチ・膠原病や腎臓病には専門性の高い治療を行う

開院時よりまず実践したいと考えていた
3つのこと

1.総合診療

2.在宅医療

3.リウマチ・膠原病、腎臓病疾患

医師として人としての想い

これまで、医師になって後悔したことはありません。患者さんの話を聞き、自分の医師としての知識や経験で頑張れば、その分跳ね返ってくる実感があります。

肉体的にも精神的にも辛いときにたくさんありますが、患者さんから「ありがとう」という言葉を一言いただくと、その辛さが一気に吹き飛ぶことがいつもあるからです。

私自身も完璧な人間ではありません。時には、患者さんとうまく理解合えずにお叱りを受けることもあります。しかし、話し合えば理解し合えると信じているので、絶対に諦めません。

私は、自分のクリニックで高度な先進医療を実践したいわけではなく、大切な人を救える医師になりたい、本当に理解して向き合える医師になりたいと思っているからです。

仕事は人を幸せにするためにあると思って、医師を選択し人生を歩んでいます。患者さんとの会話で自分の人生にも幸せを感じて治療を行っていきたいと思っています。

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