27 人の気持ち
医師になって30年以上が経過する。この間、最善、最良の治療を行うために自分なりに沢山の患者さんの病気に向き合い、知識や経験を深めさせてもらってきた。しかし、今になって医療の中で何が一番重要かと考えるととてもシンプルなことではないかと思うようになってきた。
それは医療だけの仕事に限ったことではなく、他のすべての業種でも、いや仕事以外でも言えることでもある。
いつも思うことだが人の気持ちを考えることは生きていく中で最も重要なことの一つかもしれないと。
人の気持ちを考えるとは“相手の気持ちをくみ取って物事を考えられる”ということだが、言葉では簡単に言うものの、実際のところ人の気持ちを考えられているかは難しいときがある。僕の場合、患者さんのためを思ってしたことが裏目にでてしまい何が正解かわからないことがある。
“医師は患者さんの気持ちを最大限に考える義務がある”のはすべての医師が理解しているところだが、本当に患者さんや家族の気持ちをちゃんと考えられているのであろうかと悩むことも多い。
親や兄弟など近い関係の人たちであっても、性格や価値観、物事の捉え方などは異なる。
全ての人が自分とは別人格なのであり自分を他人の気持ちに置き換えることはできないが、それでも想像することはできる。とりわけ医療においては、その想像が自分の医療の救いになるときがある。
先日、もう15年以上外来通院をしている100歳近いおばあちゃんの娘さんが相談にやってきた。
「先生、お母さんを自宅から施設に移そうと思う。自分も体が弱く介護も限界で、母親も少し認知がありこれ以上、自宅での介護は難しいです。だから健康診断かねて次回先生のところに連れてくるから診てやってほしい」と涙を流して話された。
このおばあちゃんは100歳近くになるけど自分で乳母車を押してやってきて、いつも明るく話される。
自慢は出身地鹿児島の桜島の雄大さと母校の校歌を3番まで歌えることでそれを表情豊かに伝えてくれる。
そのおばあちゃんが数日後に受診された。
一連の検診を終え診察室で僕が「施設に入ってもたくさん友達を作って好きな歌をみんなに披露してくださいね」と伝えたが、認知症による判断力、記憶力低下かもしれないがその入所することの理解がされてない様子であった。僕は少し理解されていないことのほうがおばあちゃんにとっても良いことかもしれないと娘さんと話したのだが、診察室から出ようとしたときであった。
おばあちゃんが僕に「しぇんしぇい(先生)今までありがとうやったね。」と僕に言ったのである。「ありがとやったね」と過去形で言われたことが胸にずしんと響いた。
おばあちゃんは認知症を患いながらも、今日が僕の診察の最後であることをわかっていたのだ。僕とおばあちゃんの間に漂う空気がいつもと違うことを十分感じていたのだ。娘さんも感じたのであろう。ただただ泣くばかりで、僕もしばらく言葉がでなかった。
今日の診察前には、おばあちゃんの気持ちを考えていたつもりだ。あんなに家が好きだったおばあちゃんが施設入所をどんな気持ちで受け入れたのであろうか。今日の入所の為の検診はどんな気持ちで受けるつもりなのか。娘さんに自分の本心はうまく伝えたのであろうか。おばあちゃんが嫌だと言ったら僕は上手に理解してもらえる言葉をかけることができるのか。
でも結局、おばあちゃんはすべて理解していたし、その上、僕の気持ちも受け止めており、さらに思いやりの言葉もかけてくれて、僕の相手の気持ちを考える力は、おばあちゃんが僕を思う気持ちの前では無力に終わった。
人の気持ちに寄り添い想像することを難しく考える必要はないと思う。
患者さんの気持ちを想像する時は、病気に対する気持ちを考えるのはもちろんであるが、その人が育ってきた環境や過去の経験、性格などすべて含めてその人の人生を自分で想像する必要がある。
その人に興味をもちしっかり向き合い、その人と深く付き合いしっかり話すことで気持ちの理解も深まってくる。
また、患者さんの気持ちを理解しようと思ったら、自分の感情も豊かであることが必要で“寂しい”“悲しい”“嬉しい”などありのままの患者さんの感情の揺れを受け止めるように想像する必要がある。
会えば素直になって、お互いが言葉をかけたくなるような雰囲気に浸ることができる。そんな魅力的な医師と患者の関係でお互いの気持ちが高めあえるように医師としての“徳”を積んでいきたいと思う。
令和4年10月:いしづかクリニック
院長 石塚 俊二