31 医師の暗黙知
暗黙知という言葉についてラジオで解説していたことがあった。
“暗黙知”とは、経験的に使っている知識だが簡単に言葉で説明できない知識のことで、経験知と身体知の中に含まれている概念である。これは、ハンガリーの物理化学者、社会科学者のマイケル・ポランニ-さんによって命名された言葉である。
日常の中で経験的に使っている知識のことであり、簡単に説明できないが理解して使っている知識が存在している。
たとえば、自転車に乗る場合、人は一度乗り方を覚えると年月を経ても乗り方を忘れない。自転車を乗りこなすには数々の難しい技術があるのにも関わらず、その乗り方を人に言葉で説明するのは困難である。
人の写真を見せてもらえば覚えることができるが、諸々の特徴をいかにして結び付けているかについては説明しにくく、これらが暗黙知である。
暗黙知の対義語となるのが形式知である。
“形式知”とは、マニュアルやデータとして明文化・言語化された客観的な知識のことであり、文章や口頭で伝えることも可能で、形式知化された情報は他の人と共有されやすい。操作マニュアルや料理レシピのように、何をどうすれば完成させられるかが言語化・図式化されているものは形式知である。
医師という職業は、他の職業と比べて沢山の暗黙知を必要とする仕事だと思う。
簡単なことから言えば、多くの医師は採血するときには静脈を確認し、上手にできた瞬間を言語的に「くくっと」「すーっと」を入ることを覚えていて、それを他者に正確に伝えることは困難である。
手術も自分の感覚に頼ることがあると多くの外科の先生から伺ったことがある。
私のような内科医も診察でのコツを研修医の先生から質問されることもあるが、その患者さんとの会話の中から意識することなく自然に選ぶ言葉もあり、自分でもうまく説明できないことがある。
病気の説明だけでも単に病状を正確に伝えるだけでなく、多様な患者さんの気持ちを酌むスキルが求められその話し方で説明できないところもある。
医師はこどもから高齢者まで、出産から死まで、人生において大事な時期にある人を相手にしているという意味では、より多くの暗黙知が求められていると思う。
特に終末期のような病状がより深刻で重篤な状態になればなるほど暗黙知の力が発揮されることがある。
私の専門である膠原病の治療が難航し、その説明と治療選択をするとき、また、終末期の患者さんに接し余命数日となりその経過を伝えるときなど、第六感というか虫の知らせというか何かに背中を押されながら、隠れた患者さんの真意や気持ちへの接近を予期することができるときがある。
終末期の患者さんがだんだんと話ができなくなったとしても、その表情だけからでも家族も医師も気持ちを読み取れることがある。理由は自分でもはっきりわからないのだけれども、どうもこんなことになっているような気がするという場合が多い。
それは、医師が患者さんの気持ちを知覚するときに、隠れたものへの手がかりになりそうな種々の些細な事柄が自分に暗示をかけているような感覚もする。もちろん、種々の検査等による科学的なデータによる形式知も重要でこれが存在しないと診断には到達しないことはわかっているしその重要性も十分認知している。
でも、それ以上に医療にとっては、対人的スキルが必要であり、患者さんの求めや気持ちを酌む、あるいはその気持ちとうまく協働することが重要であると思う、そしてその積み重ねにより暗黙知が得られるものだと思う。
暗黙知は医師だけが修得するものではなく患者さんも得られるものだと感じる。
医師が患者さんから感じる暗黙知を今度は患者さんがそこから感覚的に得ることが繰り返されより深い信頼関係と絆が生まれてくるのであろう。
この暗黙知を医療現場でもAIを利用し可視化する試みも始められているようだ。形式知化できるものはするべきであり、それにより医療レベル全体も益々高くなると思う。ただ、なんでもかんでも見える化を目指すのではなく、形式知化できない知識、経験することでしか学べない中にほんとうに病気の人が求めている暗黙知があるのではないかと思うし、これを感じることを大切にしていかなければいけないのではと思う。
この暗黙知を命名したポランニ-さんは「人は、語ること以上のことを知っている」と言い、知っていること(暗黙知)と語ることができること(形式知)とは違うと述べている。
令和5年3月:いしづかクリニック
院長 石塚 俊二