32 医師の寛容
在宅医療において家族の協力は欠かせないのだがその支え方は色々な形がある。そして家族と患者さんの間にいる医師の受け止め方はさらに重要である。
先日、ある在宅診療で往診をしている男性患者さんの認知症状が進行して薬をきちんと飲んでくれないと相談が担当訪問看護師から連絡を受けた。奥さんと二人で暮らしているが、奥さんの言うことに耳を貸さず時には攻撃的な発言もされ頑固な性格に閉口している状況であった。
遠方に娘さんが暮らしており数ヶ月に1回両親を見に来られるので、まず娘さんに連絡しクリニックに来てもらうようにし、その現状を説明しどのようにしたら定期的に内服して治療を受けてもらえるか2人で作戦会議を試みた。
このように在宅医療において治療や考え方に患者さんと相違があった時に、私が大切にしている一つのキーワードがある。
それは“寛容”という言葉である。寛容というのは心が広くて他人の言動を受け入れることであり、自分とは違う人や自分が否定的な評価するものを受け入れることであるという意味のことである。
昨今では、宗教や性の問題に関する態度決定によく現れていてジェンダーやセクシュアリティの問題や差別にもつながる言葉でもある。
医療現場でも医師がこの治療が最善で最良と考え患者さんに伝えてもそれが患者さんには受け入れない場合もしばしば遭遇します。そのような時にできるだけなぜ患者さんが受け入れられないのかを考えるだけでなく、自分が患者さんと全く同じ年齢、同じ病気、同じ生活であったときにその医師の考えをどのように患者さんが思うか“思い浮かべる”ことが重要で、それができるかできないかで寛容・不寛容の差がでてくると思う。
“患者さんの考えを思い浮かべる”“自分が患者さんとなる”ということを体現すると、そしてその患者さんが背負っている人生から治療を考えると、時に自分の提案した治療が効果や延命だけに依存していたことに気づき、その提案がちっぽけに感じることがあり、自然とその治療を拒否した患者さんの考えに導かれ寛容になることがあります。
今回は、患者さんの訴えを娘さんと話して掘り下げると、内服をしてもらえない薬は1種類であり、その薬が合わない気がしてならないということであったことを2人で確認した。そして翌週の往診時に娘さんも同席してもらい私がその薬についての必要性を説明した。
その薬は脳に働きかけ(認知症薬)気持ちを穏やかにしてくれる薬である。
実際にその薬の内服中は感情の起伏も改善され奥さんもデイーサービスでも症状の改善を指摘されていたのだが・・・。
その後、娘さんも家族の立場から「お父さんこの薬は今必要なのよ」「なんで飲まないのよ」と感情一杯に説明してくれたが、患者さんは「わしは自分の体調は自分が一番良く分かっていて、他の薬はきちんと飲むがこれは飲みたくないんじゃ」「飲むと足がむくむ(実際にはむくみは認めない)」最後には激高され「ちゃんとわかっとる」の一点張りでやはり拒否された。
私はその表情を見ながら幽体離脱ではないが患者さんの体に自分が入り込みその患者さんの気持ちを思い浮かべた。
もしかするとこの薬は認知症薬であり内服することで自分の感情の変化についていけないのではないか。足がむくむとういのもそう感じさせる精神・心理症状が変化しているのではと思い、最後に「ではこの薬の内服は難しいのでこれ以上は中止しましょう。もし今後、体や気持ちに倦怠感などしんどさを感じるようならその時はこれ以外の薬を飲むことを検討してくださいね」と伝え内服は中止となった。
家族は少しがっかりした様子であったので、治療を受ける患者さんの気持ちは常に揺れているので毎回、患者さんの気持ちを優先しながら内服変更について確認してきましょうと伝えた。
結局、医療上、効果を認めていた治療、内服であっても不寛容を示した患者さんに対して寛容になれというのも寛容のパラドックスであり、寛容の押しつけにもなり、これは不寛容を受け入れないという“不寛容”になってしまうと思う。
日常生活において不寛容な人は、相手も自分も同じだと勘違いしていることも多いと思う。気づかぬうちに誰かに寛容に接してもらっているから人は生きていけるのだと思う。
医療においても医療者側やまた家族であっても一つの考えで患者さんの治療を決めてはいけない。なぜなら治療を受ける患者さんは、その治療を受けることもその人の人生の一部であり、その人生はその人だけのものであり誰の制限を受けてはいけないと思うからである。その為に医療に携わる医療者はその患者さんの人生を“思い浮かべ”“寛容である”ことでその人に寄り添える入口に立てるのではと思うエピソードであった。
令和5年4月:いしづかクリニック
院長 石塚 俊二