祈りたいと自然に思うことが度々あった。
何故そのように思うのか。“祈り”について考えてみました。
そのきっかけですが、昨年末から体調を崩していた我が家の愛犬が先日、昇天しました。
14年間、家族として生活を共にして、時には僕の心を支えてくれ、たくさんの楽しい思い出とともに幸せや時間、またつらいことも一緒に過ごしてくれてほんとうに感謝の言葉しかでてこない。
今年になって食事がとれなくなり、厳しい状況に置かれても一生懸命に食べようとする姿には何度も胸が熱くなることが多かった。
もう一度良くなってほしいと心の中で“祈り”を捧げたが最後は思いも届かず天寿を迎えた。
何度も獣医さんに受診して治療を受けたが、私は獣医ではないので家族として見守ることしかできず自然と“祈り”を捧げるようになった。
そして“祈り”を捧げることを掘り下げていくときに、この“祈り”について考えるようになった。
本来、“祈り”とは、宗教によって意味が異なるが、世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。
利他の精神。自分の中の神と繋がること。神など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。
神の定理は各宗教による。祈祷(祈禱、きとう)、祈願(きがん)ともいう。
儀式を通して行う場合は礼拝(れいはい)ともいうとされている。
「祈り」について最初に本格的に研究したのは、ドイツの宗教学者フリードリヒ・ハイラーという人でした。
彼は100年ほど前に、祈りを「すべての宗教の核心であり、信仰者と神様との対話だと定義しました。
つまり、祈りは一方的にお願いするだけでなく、神様と“お話し”することである。“神様や神々に向けたコミュニケーション”と定義しています。
“祈りは、普段の意識から特別な意識状態に切り替えて、神的な存在とのやりとりを試みる行為”ということになります。成功すると、神様の声が聞こえたり、特別な体験ができたりするとされていたり、スピリチュアルな話に聞こえますが、これも立派な学術研究の対象となっています。
実際、カリフォルニア大学で心臓疾患患者に対して、祈りを受けたグループは病状悪化率が約5%、受けなかったグループは約24%。統計的に有意な差が確認されたという報告や、他者の幸福を願う祈りは、脳内でドーパミンオキシトシンという快感物質の分泌が促進され、免疫力や幸福感が向上することが示されています。
医師である私も“祈る”行為は、自身の治療の1つと捉えているところがあります。
若い時から重症の患者さんと対面した時には、治療方法を考え尽くし、もうこれ以上のベストの治療は見当たらないというところまで自分を追い込み、患者さんに説明しながら治療を実践していくのですが、その説明の時に“最後はこの治療法を医師として最善を尽くすます。そして患者さんが良くなることを祈ります”と説明することが何度かありました。
それは、僕自身も“祈る”という言葉が意図して述べた言葉ではなく、心の内から自然にでてきたときにそのまま伝えたような気もします。
僕は、宗教とは無関係に医療に“患者の祈り・医療者の祈り”があっても良いのでは思っています。
現代医療が専門化しすぎると言われる中、医師と患者間のコミュニケーションが乖離していくような傾向にあってはいけないと思うし、医療ミスに注意することは大切だが、そこばかりに気を取られて、治るという気持ちを両者が失っていくようではいけないと思う。
医療の“祈り”とは漠然とした気持ちの表現ではなくて、医療側も患者側もやるべきことをすべて努力したあと、治るという気持ちを持続していくため必要な思いの1つではないかと思います。
心理的、精神的にも“祈り”によって自分ではコントロールできないことを手放す感覚が生まれ、安心感につながるし、困難な状況でも希望の保持にもつながることができる。また、“祈り”は自然や神仏とのつながりを感じることもできるし、“祈り”の中での“ありがとう”はポジティブな感情も増幅していくような気がします。
今、世界のニュースとしてイラン戦争が勃発しています。戦争は国際法に違反するもので誰が見てもするべきではない。直ちに収束してほしいと“祈る”ばかりである。
“祈り”は“目に見えないけれど、確かに届くもの”であり、科学と精神性の両面から見ても、癒しと希望に満ちていると思う。
令和8年3月:いしづかクリニック
院長 石塚 俊二
